茂山千五郎家は江戸時代初期から、京都在住の狂言師の家として歴史に残っております。
初代から四代目までは、詳しい記録が残っていません。
貞享4年(1687年)の文献に【油小路通四条下る】に「茂山徳兵衛」という狂言師がいたことが記されています。この徳兵衛が五代目になります。
徳兵衛は姫路藩、本田忠国のお抱えで、十五世宗家の弟子であったことも分かっております。
(『能之訓蒙図彙』巻四 京都芸者名付[狂言])
六代目から禁裏御用(御所に出入りを許されている。今でいう「宮内庁御用達」のような家)の能楽師として、京都・奈良を中心に狂言を上演した記録が各地に残っています。
六世・源右衛門は、正徳2年(1712年)2月9日に、現在も続いている「興福寺・薪御能」にて、『麻生』の烏帽子屋にて出演した記録があり、これが茂山家の最古の狂言上演記録となります。
七世・源兵衛は元文2年(1737年)禁裏能にて『花折』に出演の記録があり、その後、「茂山会」という茂山を冠した会を催しています。寛延2年(1749年)には、前年に死去した十六世宗家の追善会を催しており、大蔵流の中でも確固たる地位を築いていたと思われます。また、本田家浪人と記されており、本田家の扶持から離れていたことが窺えます。
八世・久蔵(源右衛門)は9歳から狂言を習っていましたが、師匠の死去などがあり20代のころに一度狂言を離れ、青酒造介重盛という名で、禁裏御用の鏡師をしていました。しかし、京都の大蔵流の狂言師がいなくなってしまったことから、八代目として茂山家を継いだようです。そして、当家に伝わる一子相伝の「秘書・大蔵流大儀大事」を書き残しております。
(久蔵書「秘書・大蔵流大儀大事」)
九世・正乕は呉服商の次男(本名・佐々木忠三郎)でしたが、文政4年(1821年)11歳の時に八世・久蔵の養子となります。ところが、その翌年に久蔵が他界してしまい、江戸へ赴き二十世宗家の元で修行を積みます。3年の修行の後、宗家の許しを得て京都へ戻ります。この時に宗家から「千」と「乕」の字を贈られ千吾正乕と名乗ります。
京都へ戻る時に、江戸の修行に同行していた弟弟子の小林卯之介が茂山家の分家となり、正乕の元の名である「忠三郎」を譲ります。これが現在も続く茂山忠三郎家の初世となります。また、宗家の計らいで、流儀の六義(台本)を写す事も許され、七冊の六義を写して京都へ戻ります。
正乕が彦根藩の演能に出勤していた時、『枕物狂』という秘曲を勤めていた小川吉五郎が途中で倒れます。その時、正乕が代役として見事に舞い納め、その功績で彦根藩に抱えられます。この時「千吾」を彦根の殿様が「千五ロ」と呼ばれるので、名が「千五郎」になったという話しが伝わっています。
彦根藩の記録には、天保13年(1842年)32歳で「千五郎」の名で抱えられ、安政6年(1859年)に「千吾」と改めたと残っています。さらに「千吾」に戻しておきながら、後にまた「千五郎」を名乗っています。理由は分かりませんが、とにもかくにも正乕が初代「千五郎」であることは間違いありません。
(九世正乕)
(大蔵流六義乕寛本写し・正乕書)※現在、茂山家には6冊しか残っておりません。7冊目(鬼山伏の部)を発見された方は、当事務局までご一報ください。
十世・正重は明治元年(1868年)5歳の時に「柿山伏」で初舞台を踏みます。しかし、21歳の時に家を出てしまい、父・正乕の葬儀にも出られませんでした。正乕の死後、周囲のすすめもあり明治21年に家に戻り千五郎を襲名します。
その後は心を入れ替え、能楽界のために尽力します。明治31年には全国から280人の能楽師が参加した「豊太閤三百年祭奉納能」を四日間開催したり、京都お伽倶楽部という子ども狂言の世話役をしたりして、明治期の狂言普及に努めます。その時の普及活動から千五郎家の「お豆腐狂言」が生まれました。
(豊太閤三百年祭奉納能の石碑)
十一世・真一は生まれるとすぐに茂山家に養子として引き取られ、4歳の時に『附子』のシテで初舞台を踏みます。母が他界した時に、父・正重から養子である事を知らされ、実子で無い体の弱かった自分を大切に育ててくれた事への感謝で号泣しました。
大変几帳面な性格で、大正6年から茂山家が出勤した舞台を演目・配役まで全て記録しました。また、それまでは九世・正乕が写してきた六義が定本でありましたが、時代と共に変化した部分もあり、昭和10年から35年をかけて六義を再編纂しました。現在の茂山家ではこの真一本が定本となっています。
また、文豪・谷崎潤一郎氏や、日本人初のノーベル賞受賞者の湯川秀樹氏ら、京都の著名人とも交流が深く、昭和27年には谷崎潤一郎氏から小舞「細雪」の詩を贈られています。
少年時代は体が弱く、医者から30歳までもたないと言われましたが、昭和21年に千五郎を襲名。昭和41年には70歳で千作を襲名。80歳で人間国宝に認定されるなど、数々の栄誉に輝きました。
(十一世・真一)
(谷崎氏から贈られた「細雪」)
現在も十四代目の当主・千五郎を中心として、400年にわたり京都に息づいてきた狂言の普及・継承に勤めています。